旅するコーチのblog

旅するコーチのブログです。コーチングをしながら旅しています。旅をしながら感じること、思うことを発信します。

ただいま日本

f:id:kazuhiroomura:20170108180801j:plain

【ただいま、日本】
どんな暮らしがしたいか、考えてみました。
僕自身でいえば、自然のそばに住んで、心穏やかに、周りに感謝して、手作りのものを食べて暮らす、というのが今の理想です。
更にいうと、幾つかの拠点をもって、例えば、都会と地方で暮らす場所をもったり、12~3月をパタゴニアで過ごすような暮らしができたら最高だなと思っています。
そして、さらにさらにいうと、人と組織がもっと健やかに幸せに、お互いを活かしあえたらいいなと思っています。 

「自然のそばに」というのは、どこがいいかまだわかりませんが、理想は家の近くか、近くの自然の中で焚き火ができたらいいなと思っています。それは、山の中でもいいし、海岸のそばでもいいのですが。

僕が生まれた実家の山梨の家には、かまどがあって、もち米を炊いたり、とうもろこしを茹でたり、赤飯を炊いたりと、かまどを使って、直火で調理をするというのがごく自然に近くにありました。
パタゴニアでも薪ストーブをつかって料理もつくり、家全体があたたかくなるような暮らしをいろんな家でみました。火が近くにあるというのは、何だかんだほっとするし、火の暖かさに触れると心も少しほぐれるようなそんな気がしています。
大学生の頃、キャンプに行って焚き火を囲みながら、ぽつりぽつりとみんなが誰にでもなく話し出す、いつもは少し照れくさいけど、思っていることを語りだすあの雰囲気がとても好きで、キャンプに行くと火おこしから火の番まで、火のそばにつきっきりになってしまいます。焚き火とその火を囲む雰囲気がたまらなく好きなんだと思います。

「心穏やかに、まわりに感謝して」の肝は、不便な暮らしなんじゃないかと思っています。
便利で効率的で、なんでも揃う、なに不自由ない暮らしというのは、極端にいえばホテルとコンビニのような暮らしで、きれいで居心地よくほしいものはなんでも揃うのですが、すべてをサービスとして買っているような、少し物足りなさがあるような気がしています。
手間をかけて何かをする代わりに、お金を出してほしいものを手に入れるという暮らしは、ほしいものはたしかに手に入るのですが、手づくりで手間をかけてつくったり手に入れたりすることとは本質的に全く違う体験だなあと思います。
不便な暮らしは、例えばキャンプとか、自分の家を自分で建てるような、そんな暮らしで、限られたモノ、自然の恵みを活かした生き方をしたいなと思っています。
お金をつかって生きるというより、知恵と工夫で楽しむ、そんな暮らしでしょうか。
旅の中で体験した、不便なところほど、例えばパタゴニアのトレッキングの最中など、小さなことに感謝、感動が生まれます。
携帯用のガスバーナーでお湯を沸かして、コーヒーを飲んだときの幸福感、暖かな部屋と、あったかいシャワーに感動することも、それがあたりまえにあるわけじゃないところに自分がいることで、小さなことが喜びに変わりました。
カミノデサンティアゴを歩いてる時も、毎日が決して快適で便利なわけではありませんが、だからこそ巡礼者同士が助け合ったり、ごはんをシェアしたり、限られたものを活かして工夫する楽しさを知りました。不便だったけど、最高に楽しく、幸せな毎日でした。

『ありがとうの反対は、あたりまえ』という言葉を聞いたことがありますが、あたりまえになんでも揃う暮らしの中で、感謝の心を持つのは少し難しいなと、自分の体験から思います。頭ではわかっていても、すぐに忘れてしまうし、ついつい言葉だけの感謝になってしまいがちな気がしています。

太陽のあたたかさ、布団のあたたかさ、きれいな水があること、洗濯物が乾くこと、足を伸ばしてゆっくり寝られること、一杯のお茶が心も癒やしてくれること、新鮮な果物を体に取り入れることができること、自然の恵み、不便な自然の近くにいるほどに、日々のあたりまえのひとつひとつがとてもありがたいことのように感じられて、自然と感謝が湧いてきます。

感情の遠近法というか、不便なほどあたりまえは減って幸せや感謝を感じやすくなり、便利なほど、あたりまえが増えて、幸せや感謝を感じにくくなってしまうような、そんな気がしています。

「手作りのものを食べて暮らす」は、南米、スペイン、モロッコを経て感じたことです。食べ物が美味しいと、自然に幸せを感じるというのは、旅の中で何度も経験しました。
日本で働いていたとき、忙しくて食事をほとんど外食ですませていたときがありました。おいしいものも食べたし、手軽なもの、凝ったものいろんなものを食べました。
それが、よくないとは思いませんが、僕にとっての幸せの体験というのは、手作りのごはんを誰かといっしょに食べることなんだと言うことを感じました。
パタゴニアで1ヶ月半キャンピングカーで旅した時は毎日、自炊をしていました。限られた食材と限られた調理器具でつくるキャンプめしは、どんなレストランで食べるより満足感がありました。時々失敗もしましたが、それもまた楽しくしあわせなひとときでした。
モロッコのトドラ渓谷にしばらく滞在したときも、自分たちでサムゲタンをつくったり、手打ちのうどんをつくったり、てづくりでバームクーヘンをつくってみようとチャレンジしたりと、何かを買ってきて食べるということと、手づくりで自分たちでつくったり、誰かの愛情のこもったごはんを食べるというのは全然違う体験なんだと感じました。
旅する前は、自分のしあわせにこんなにも食事が影響するとは思いませんでしたが、どうやらあなどれない大事なことのようでした。つくるより、買ったほうが安いからと、値段で何かを選びがちでしたが、どっちが嬉しさや喜びがあるかで言うと手間がかかっても手づくりのものだなと意識が変わりつつあります。

拠点を幾つかもったり、人と組織のしあわせについては、もう少し熟成してから言葉にしてみたいと思います。

こんな暮らしをしたいと思ってるんですが、どこかいいとこありませんかーーー。

写真は、キューバにて。

 

そろそろ諦めたほうがいいよ

f:id:kazuhiroomura:20161225181701j:plain

「かずくん、そろそろ諦めたほうがいいよ」

昨日、コーチと話していたときに言われました。
「かずくんはさー、目先のやりたいことはあるけど、中長期的なやりたいことがなかなか見つからないんだよね。それがわからないから旅をしてると思うんだけど、中長期的などうしたいをもたなければならないっていう思いこみ、そろそろ手放してみたら?」

うわーとおもいました。
僕の中に、【この人生を何のために使うのか?】という問いがあります。
ずーーーっと考えてきて、しっくりくるものが見つからず、最近特にもやもやしていました。
もやもやの原因のひとつは、この問いに対して答えを出さなきゃという焦りと、自分がどうしたいをもたない自分はよくないという思い込みでした。
自分がどう生きるか、自分の使命をもって生きる人はとても素敵に見えるので、自分もそうなりたいと思ってはいるのですが、それが逆に自分へのプレッシャーとなって「明確で具体的な答えを持っていない自分はよくない」に変わっていたように思います。

人生の大きなテーマを決めて、やりたいことや成し遂げたいことに邁進する人もいるけど、そうではなく、そういった大きなテーマをもたなくても自分の好きなことをやってまわりにとってもいいインパクトを与えている人もいます。
自然体で無理がなく、気持ちよく生きている人たちです。

問いを持つことと、答えをもつことは違うようです。
問いをもった瞬間に、早く答えがほしくなるし、答えがない状態にステイするのは気持ちが悪いのです。
でも、答えは探そうとしても見つかるものではなく、気がついたら答えを自分がもっていた、そんな類のものにも思えるのです。

答えを見つける、探すを繰り返すと、逆に持ってないことがフォーカスされて、持ってないこと自体がよくないことのように思えて自信をなくすというプロセスを繰り返しているような気がします。

こうであらねばならない、こうすべきという自分への思い込みがあるほど窮屈でしんどいなあと思っています。
こうであるべしは、そうではないときにそうではないことを責め、そうではない自分を責めることにつながってしまいます。

やりたいことがあってもなくてもいいし、自分の使命や大きなテーマだってあってもなくても、それ自体になんの意味もなくて、どっちでもいいのかもしれません。
そこに自分の解釈で、ないことに対して焦りや自分を責めるという矢印が加わることが、余計自分を小さくしていくようなそんな気がします。
やりたいことがあるないと、パートナーがいるいないはなんだか似ている気がします。
ある方がいい、ないことはよくないという思いこみは、めぐりめぐって自分を小さくしていくような気がします。
自分だけではなく、周りの人に対してもその思いこみを前提に関わることもまた、その思いこみを強化しまわりの人にも伝染させているのかもしれません。

あってもいいし、なくてもいい。
あることをよしとする思いこみの呪縛を手放した先に、自由な選択があるような気がします。

自分を満たすというこの旅は、未だにどこにたどり着くのかわかりませんが、ちょっと先のどうしたいを手がかりに自分に正直に素直にやりたいことをやるというところにシンプルに追いかけて行きたいと思います。

今日から一ヶ月ほどキューバに行きます。
ほとんどインターネットが使えなかった国キューバ、アメリカからの経済封鎖により独自の進化を遂げたキューバの文化と人に触れること、世界のどこに行っても同じものが買えるグローバリゼーションの波を受けずに、数十年を過ごしてきた国の空気に触れてきたいと思います。
キューバの後は、ずっと行きたかったスペインの巡礼の道を歩く予定です。
まだ旅の資金のめどはたっていないですが、12~3月くらいにもう一度南米に戻ってパタゴニアを自転車で旅をしたいなと思っています。
僕にとっての少し先の本当にやりたいことはこのあたりまでしかみえていませんが、自分のやりたいことを実現できるように動いていきたいと思います。

特にスペインの巡礼の道の後は、どうなるか自分でもわかりませんが必要なことが起きることを信じていたいと思います。

「かずくん、そろそろ諦めたほうがいいよ」
という言葉は、自分がどう生きたいかを持たなければならないという思い込みをそろそろ手放した方がいい、もっと自由でいいんだよと、そんなメッセージに思えます。
世の中の誰かの役に立つ方がいい、自分のやりたいことだけやってたらいけないという声が、繰り返し自分を縛ろうとしますが、ただただシンプルに自分のやりたいことを一生懸命生きるという生き方を実践していきたいと思います。

昨日、メキシコのカンクンでセノーテに行ってきました。
透明度の高い水の中、神秘的でした。

たとえ、その一歩が本当に本当に小さな一歩だとしても

f:id:kazuhiroomura:20160801185732j:plain

たとえ、その一歩が本当に本当に小さな一歩だとしても、歩き続けたら山の向こうまでたどり着ける。

今回の南米の旅はいろんな場所でトレッキングや登山をしています。
おととい行ってきたワラスのラグーナ69も標高4700mのところにあり、延々と続く登り道をテントや寝袋食料、水を入れたバックパックを背負って登っていくのはなかなかハードでした。
呼吸が乱れると苦しくなるので、できるだけ一歩の歩幅を狭く狭くして、時には牛歩よりもゆっくりなんじゃないかと思うくらい10センチ、15センチで歩いた時もあったのですが、どれだけゆっくり歩いても、どれだけ歩幅が小さくても、休みながらでも、歩き続ければ行きたいところに行けるのです。

山歩きはとってもシンプルで、奥が深く、自然の中にはいらせてもらう喜びと感謝に包まれます。

スペインで盗難にあい、パスポートもクレジットカードもカメラも現金もパソコンもなくして、一時はどうなるかと思いきや、こうしてまだ旅を続けられ、未知の世界に足を踏み出していけること、本当に幸せだなと思います。
ありがたやありがたやです。

パタゴニアやペルーのワラスで、本当に素晴らしい景色を目にする瞬間が多くて、ついにカメラをまた買おうと思っています。
僕が見ることのできた世界の絶景を、地球のいろんな場所にいる友達にシェアできるのはなんだか嬉しいことです。
テクノロジーの進化、バンザイです。

実はちょっと言いにくいのですが、もしもし旅を応援してくれる気持ちと少しカメラの購入にカンパしてもいいよという方がいたらメッセージをくださいませ。
日本で働いてる時は、買い物をする時もそれほど悩まずに買っていたのですが、限られたリソースを何に使うかを、大事にしながら旅をしています。
旅を半月短くするか、カメラを買うかと考えていたのですが、お金もエネルギーの循環で気持ちよく受け取ることも学びだな~と思いはじめました。

今日からまた4日間のトレッキングに行くので、メッセージの返事は遅くなってしまうと思いますが、旅をサポートしてもいいかなと思ったら連絡をください。

そういえば、コーチングにも興味があって、受けてみたいなという方も大歓迎です。

山に、自然の中に行ってきます。
今日も小さな一歩を踏み出しに。

蒼い空と白い山と月

蒼い空と白い山と月。
peru Huaraz

ペルー、ワラスにいます。
昨日まで2日間のトレッキングにガイド無しで一人で行ってきました。
テントや寝袋、食料やガスバーナーも。
標高3700-4900メートルのトレッキングルートは息をのむような素晴らしい景色の連続でした。

日本にいた時はそんなにアウトドアでもなかったのですがパタゴニアで急に山が好きになりました。

まだまだ山歩き初心者ですが、少しずつ楽しんでいきたいと思います。

明日からは4日間のトレッキングに行ってきます。
ひとりで行くのとツアーに参加するのは、全然違う体験だということを知りました。

 

f:id:kazuhiroomura:20160628171620j:plain

 

僕はいつ死んでもいい。(と思いたい。)

僕はいつ死んでもいい。(と思いたい。)

いつ死ぬかわからないし、人は必ず死ぬんだということから逃れられないとしたら、死を遠いどこかのこととして忘れたくないと思っています。

もちろんすぐに死にたいわけでもないし、親を悲しませるようなことはしたくないし、送り出してくれたお世話になった人たちに、元気に生きて帰ることが1番のお土産だと勝手に思ってはいるのですが、どう考えてもいつ死ぬかはわからないなと思うわけです。

日本人の平均寿命が80歳だからといって、それが僕がいつまで生きるかとはほとんど関係がないのです。
海外で会う人、海外で仕事をしていたり、起業、旅をしている人も含め、自分の命が限りあるもので、いつ死ぬかわからないということを意識している人は多いような気がします。
いつ死ぬかわからないから刹那的に今やりたいことだけをしようという気はないのですが、(いや、ちょっとはありますが)、「いつかやりたいこと」は、「いつまでたってもやりたいことのまま」、というのは定説です。

うまくやろうとすればするほど、一歩目を躊躇して踏み出さず、見切り発車でも一歩目を踏み出した人の方が、いくらでも軌道修正や方向転換ができるなと思います。

【物事にはタイミングがある】
【まだ機が熟してない】

という諺もあれば、

【思い立ったが吉日】
【今日が残りの人生で一番若い時、始めるなら今】

という言葉もあります。
どちらが自分の背中を押すかはわかりませんが、今がそろそろ何かを変えるときだと思っているなら、きっと今なんだと思います。

いつ死ぬかわからないこの人生、やらなかったことを嘆くより、挑戦した自分を生きたいと思います。

誰かにと言うよりは、なんとなく自分に対して思ったので覚えておくためにも書いておきたいなと思いました。

アマゾンは、電気も水道もない村に滞在し、ハンモックに揺られ、本を読んでいました。
パタゴニアの自然とは全く違う熱帯の土ぼこりと、照りつける太陽と、夕方からあらわれる蚊の襲撃と闘いながら、サンダルで過ごしました。

自然の近くに住みたいと思っていましたが、ここには住めないなと気づくきっかけにもなり、平和って退屈だなとも思いました。

ただ、庭にパパイヤバナナがなっていて、それを好きな時にとってきて食べるという暮らしは温かいところに住む人の余裕につながるような気がします。
どんな場所でも人は生きていけるし、なにか失敗しても死ぬわけじゃない、何を怖がっているんだと、いつまで足踏みをしてるつもりだと、なんとなく自分に対して思うわけです。

f:id:kazuhiroomura:20160628171843j:plain

【3300km、4days、by bus】

【3300km、4days、by bus】


チリのバルパライソからペルーのリマまでバスで移動してきました。
アレキパに2泊だけ、バス2泊を含めて、だいぶ移動しました。
そして今日もこれからアマゾンに向けて20時間(笑)

あれほどゆっくり旅をしていたのに、山を転がる石のように今は移動をしています。
アマゾンの村ではwifiもつながらないようなので、しばらく音信不通になります。

直感と出会いに導かれるままに次へと進みます。写真はバルパライソのゲストハウスの窓からの朝焼け。
写真には映らない美しさでした。

f:id:kazuhiroomura:20160628172052j:plain

砂丘から見た夕焼け

バルパライソから少し北に行った場所にあるconconという砂丘から見た夕焼け。

海と空の境界が曖昧で、夕焼けが海に反射して、なんとも綺麗な時間でした。

パタゴニアで3日だけ一緒にキャンピングカーで旅をしたsergioに会えたことが嬉しい瞬間でした。

また会える。

それはとっても奇跡的なことなんじゃないかと思ってしまいます。

これから30時間のバスでアリカに向かい、バスを乗り換え国境を越え、さらに7時間ほど進むとたぶんアレキパです。
チリ、こんなに素敵な場所だなんて知りませんでした。

暮らしてみたいと思う国のひとつです。
チリでの出会い、感謝です。
ありがとうございました。

f:id:kazuhiroomura:20160628172237j:plain