「不」自由も自分で選んでいるもの
自由でいいよね。
たまに、日本で久しぶりに会った友達と話している時に言われることがあります。
隣の芝は青く見えるので、日本の日常にいて忙しく働いている人からしたら、たしかに自由に見えるし、自分でも自由を満喫したいと思っているので、そうだよなーと思っていたのですが、人によってまったく違う反応があったりします。
「(あなたは、わたしと違って)自由でいいよね」といわれている場面と、
「(自分も選択しようと思えばできるんだけど、今はしないんだよね。でも、そうは言っても)自由でいいよね」の二つです。
もちろん、人が置かれている環境は違うし、責任も、守るものも、今が仕事でどんなステージにあるかもちがうので、「わたしとあなたはちがう」というのは真実なのですが、すこしきつい言い方をすると、はじめからその選択肢が自分にはないように聞こえるのです。
別の言い方をすると、痛みを避けて、変化を嫌っているようにも感じてしまいます。
誰もがほんとは自由で、自分が今いる現実を望んで選んでいるのだと思うのです。
会社に勤めている人も、東京に暮らす人も、地元で生きていこうとそれを望む人も。
両親と暮らすことも、今のパートナーとの関係を続けることも、全部自分が選んでいるのです。
当たり前といったら当たり前なのですが、その、「選んでいる」という感覚をつい忘れがちで、自分と違う環境、状況にある人を羨むことは、その状況を自分もつくり出そうと刺激を受けるならまだしも、ただ、「あなたはいいね」と自分と相手を切り離すことには、自分にはできないと、言い聞かせているようにも聞こえます。
僕らは、自分がいま目の前に引き起こしている問題も、環境も、人間関係も自分で選んでつくり出しています。
物理的に、時間的な自由ももちろんありますが、精神的な自由こそ、手に入れたいと思うし、感じたいものだと思います。
毎日が日曜日で休みだとしても、お金の不安に押しつぶされていたら、楽しめないということを味わいました。
仕事に行く必要がなくても、自分で使える時間がどれだけあっても、離婚の協議中なら、その時間を自由だとは思えません。
お金の不安も、なければ生きていけないという思い込みと、錯覚のひとつで、いくらあったら安心で、十分にある状態をつくり出すまで、自分は自由じゃないと思うのなら、いつまでたっても自由を感じることはできないのだと思います。
お金のために、働いて、生活のために(お金のために)、仕事を辞められないとしたら、何を大事にしているのかを、自分に改めて問う必要があると思います。
お金はツールであることを思い出したいし、お金に(もしくはお金のためにという言い訳に)自分の人生を支配されたくないと思います。
今の生活を維持するために、犠牲にしているものがなんなのかを、今一度考える必要がありそうです。
新しいものをつかむためには、何かを捨てる必要があります。
手放すことで、新しいものをつかむことができます。
自分が変化を恐れるあまり、何も捨てられないとしたら、新しいものをつかむことも諦めた方がいいです。
そして、捨てない暮らしを選んでいるときっぱりと言い切って、今あるものにフォーカスして、自分と違う暮らしをしている人を羨むこともやめたらいいんだと思います。
その方が潔いし、すっきりすると思うのです。
もし、自分がいまの環境を変えたいと願うなら、自分にとって、重そうなものを捨てる準備をするのも、ひとつかもしれません。
それが捨てられると、自由が、手に入るかもしれません。
その自由が、自分にとっていいものかどうかは、手にしてみるまでは、経験してみるまではわかりませんが。
自由でいいよね、と言われて、そうだよなと思いながら、ふとこんなことも湧いてくる日本滞在でした。
僕も、自分のとらわれが少しでも減らせるといいなと、自分をふり返っています。
そして、捨てるの怖いよなーと、いつもビビっています。
明日、成田からアラブ首長国連邦のアブダビでトランジットして、イタリア、ミラノに向かいます。
ちなみに、写真はタイのクラビの夕焼け。東南アジアで一番綺麗な夕焼けでした。